『歴史の終わり』 地方移住やノマドに見る自由への欲求

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フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』を読みました。フランシス・フクヤマは日系3世の著名な国際政治学者です。1992年に出版された本書は、冷戦後の国際構造を説いた一説として、様々な論争を巻き起こしました。

出版後すでに20年以上が経過し、すでに古典的な名作といえる本書ですが、さまざま考えさせるところがあり、500ページの分量と時間をかけて読む価値がありました。

「人間の歴史はすでに終わっているのではないか」という幾分センセーショナルな仮説が本書の骨子です。フクヤマの主張を乱暴にまとめると次のようになります。

有史以来、人間は争いを続けてきた。なんのための争いだったのか。決して経済的な欲望のためだけではない。一番の要因は、人間には他人に認められたい「認知」という根源的な欲求があることだ。フランス革命や奴隷解放運動といった史実は、経済合理性だけでは説明することができない。

この人間の「認知」を一番満たす政治体制はなんだろうか。答えは民主主義である。社会主義が崩壊した理由は、経済的な失政ではなく、人々を抑圧し「認知」を奪ったことが原因だ。今後も、人間の「認知」を満たす制度、つまり個人が自由と欲望がバランスされる政治体制は、民主主義以外にありえないだろう。

これまでの「認知」を欲する人間の闘争は、民主主義制度の確立によって、終焉を迎えている。そう、すでに人間の「歴史」は終わっているのだ。

ここで使われている「認知」とは尊厳とか敬意のような意味合いだと解釈しましたが、現実になっている事象が多くあるように思います。

例えば最近の地方移住ブーム。ノマドワーカーへの憧憬なども、まさに経済的な欲望をあきらめても、企業への従属を拒否するというライフスタイルです。技術革新によって、個人の尊厳と自由の幅が、極限まで尊重されるような社会構造になっていくでしょう。

 

さて、この本書は「民主主義はベストだから世界各国に普及させなければならない」と解釈され、普及の為には戦争も辞さないというネオコンの主張を肯定したとして、多くの反論が寄せられました。

このうち最も有名なものが、ハーバード大学の師匠でもあったサミュエル・ハンチントンによる『文明の衝突』です。ハンチントンは「文明により政治体制が決定され持続はしない」として「歴史は終わらない」と反論しています。