映画『ロスト・イン・トランスレーション』 言葉にできないものを考える

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ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』を久しぶりに見ました。2003年に公開された監督デビュー作で、なんと14年前!の作品です。 

この『ロスト・イン・トランスレーション』はタイトルが良いですよね。歳をとるにつれて、ますます含蓄あるコンセプトに感じます。

直訳すれば翻訳の過程で失われたもの。

ロスト・イン・トランスレーションとして思いつくのは「identity」です。自己同一性と訳されますが、ピタリとはまる意味合いの日本語は無く、それゆえ、アイデンティティとカタカナで記されることが多いと思います。

他民族が入り混じる大陸国家で生まれた概念ですよね。日本人は「私たちはどこからきたのか、私たちはなにものか」なんて考える必要がありませんから。

でも最近は、日本語の中にもロスト・イン・トランスレーションがあるなぁと考えるようになりました。日本語というより「言語」ですね。いわゆる「言葉にできない」ものです。

例えば、株の売買をするときに、どのように意思決定していますか?と問われたら、答えは「なんとなく」です。フィーリングですね。

「なんとなく決めた」なんて一見するとロジカルでなく、あてずっぽうな行動のように思いますが、その判断をゆっくりと言語化していくと、実はそれなりに合理的な行動をとっていたりするんですよね。

思考回路は言語化するより早くシナプスが走っている。たくさんの情報が必要な高度な意思決定こそ、言語化の手間を省きながら、「言葉にできない」判断を下している。そう考えるようになりました。

 

さて結局なにが言いたいのでしょうか。2つあります。

1つめは「フィーリングな判断が必ずしも間違っていない」こと。2つめは、『ロスト・イン・トランスレーション』は良い映画だということです。