ほぼ日刊イトイ新聞がHTMLむき出しの牧歌的なデザインだったころ、保坂和志の「カンバセイション・ピース」を突如推したことがあって、これをきっかけに保坂和志の小説を数冊まとめて読んだ。
最初に読んだのは「プレーンソング」、次に続編の「草上の朝食」を読み、それから「季節の記憶」を読んだ。久しぶりの帰省中に本棚を整理したところ、当時は途中で読むことを断念したソフトカバーの「カンバセイション・ピース」をみつけた。
不意打ちのように大学生だった当時の記憶がよみがえり、いまなら読めるかな、とエモい気持ちで持ち帰ってきて、8月末の連休中に読み終えた。
保坂和志の小説はなにもない日々をただ描写するというスタイルで、ストーリーがない。インタビューによると狙ってこのようなスタイルを発見したようで、面白い物語を書こう、ということより、既存の小説の創作を疑い、新しいスタイルを見出したい欲求があるように感じる。
伯母が死んで私と妻の二人が世田谷のこの家に住むようになったのが去年の春のことで、その秋に友達が三人でやっている会社をここに移し、今年の四月からは妻の姪のゆかりも住むようになったので、勤めに出ている妻をぬかして昼間は五人がこの家にいることになったのだけれど、私の知っているこの家の住人の数と比べたらまだずっと少ない。
各小説の登場人物も保坂和志自身を投影してか、よく考える人物であって、つねに世の中への疑問や常識を疑っている描写がある。小説や物語に必ずあるはずのストーリーがない、というスタイル自体がこの延長にあって、コンセプト重視というか、現代アーティストや哲学者に近いのだろう。
かつて確かにあったと感じられるというのは過去の問題でなく現在の状態のことだ。なぜなら奥の部屋にかつて射し、いまも射している明るい光は、ただ一様に射しつづけてきたわけではなくて、そのつど射すものだからだ。繰り返すものはただ一様なのではなくて、従妹兄たちや私自身が過去にしたことが現在の私に働きかけるように、運動の持つ重層性を力としてそのつどの働きかけを生み出しているはずだからだ。
怠惰な毎日をただ過ごしていた大学生の頃は、「プレーンソング」や「季節の記憶」のただ幸せな毎日が続いていくという幸福感に満ち溢れた描写が、人生のモラトリアムにジャストフィットして、とても面白く読めた。
20年ぶりに読んだ「カンバセイション・ピース」の主人公は44歳であり、まさにいまの自分と同年代。これは感情移入できるかと期待したが、日々の淡々とした描写が、社会人として生きる自分の人生にはマッチせず、なかなか難しい読書だった。この数年は骨太な海外文学を読んでいるので、テーマも細く繊細すぎると感じてしまう。
「ストーリーがない」という保坂和志が発見したコンセプトも、2つ3つの作品はよいかも知れないが、いかんせん起伏がなさすぎる。「カンバセイション・ピース」以降に目立った作品を見かけていないが、考えすぎの弊害というか、コンセプトの限界もあるのかな、なんて失礼ながら感じた次第。





