ぺけじの日記

Keep cool but care

バルガス・リョサ「緑の家」

今年の4月にリョサが亡くなったというニュースがあった。バルガス・リョサはペルー出身のラテンアメリカ文学を代表する作家であり、ガルシア・マルケスと並んで、西欧ではない、「オルタナティブ」な文学というイメージ。常々、読んでみたかったが、なんとなく社会派の印象があって、気後れしていた。

ところが、エイヤッ!という気持ちで読んだこの「緑の家」は生粋のエンターテイメントでした。最初はジャングルの中で、原住民のインディオと西欧人が遭遇するような場面から始まる。草木や虫を避けながらジャングルを分け入っていく記述に、うんざりして、これは読み進められるか不安だったが、次第に物語が乗ってくる。

途中から、面白く、いや面白すぎて、下巻に入ったら止まらなくなってしまい、下巻は1日で読み終えた。トータルで850ページの分量だけど、まったく気にならない面白さ。濃厚すぎてすぐには無理だけど、時間をあけて、もう1度読み返してみるつもり。

いくつかのエピソードが同時並行で進んでいく構成になっている。「パルプフィクション」をイメージするとわかりやすい。時間、場所、登場人物が異なるエピソードがごちゃまぜに書かれていて、読んでいるうちに各エピソードが繋がってきて、あとから、いろいろな要素が繋がっていたことがわかる。

この小説を複雑にしているのが、読者への親切心が一切ないところで、例えば登場人物が異なる名前で呼ばれ、解説がない。ニエベス、ドン・アドリアノ、船頭。もちろん、全員同じ人物を示している。

また異なる場面が急に挿入される。そこの場所にどう考えてもいない人のセリフが唐突に出てきて、あ、これは異なる時間や場所のシーンに変わっているんだ、とわかる。最初の方はこの切替に気が付かなかった。

この複雑さがピンチョンの「V.」に似ているなと感じ、もちろん時間軸は逆で、ピンチョンはリョサの影響を受けているに違いない。この点もピンチョンを読む時と同じく、読書メモがあった方がよいかもしれない。

もっとも、私は途中であきらめたというか、深く考えずにリズムで読むべきなのでは、なんて感じて、深く考えずにノリで読んだ。バイブス読書である。読み終えた後は、解説ブログを検索してして、ふむふむ、と1人で感想戦を行った。

以下のサイトがよくまとまっています。

lju.hatenablog.com

このブログの記事は2009年。本書の出版は1966年。私が読んだのは2025年。素晴らしいですね、これは人類の一つの叡智ですよ。

タブツキ「インド夜想曲」

 

 

アントニオ・タブツキはイタリア人であるがポルトガル語を専攻し、ポルトガル文学の教授として、イタリアの大学で教えていたそうだ。年の半分をイタリアの大学で、残り半分はポルトガルで過ごしていたそうで、68歳の生涯を終えた場所はリスボンである。

先月「供述によるとペレイラは」を読み、これはタブツキの愛したポルトガルを舞台にヨーロッパ革命前夜の若者を描いた、私としては本来苦手な政治風味がある内容だったのだが、なかなか面白く、次の本を探してみた。

1984年に出版された「インド夜想曲」である。日本で最初に出版されたタブツキ本であること。Wikipediaによると代表作であること。メディシス賞なるフランスの文学賞を受賞した作品であること、などの理由で選んだ。

タイトルどおりインドが舞台で、失踪した知人を探していく物語。既視感があるな、どこかで読んだ気がするな。ということで、これはオースターですね。ポール・オースターのニューヨーク3部作に、テーマも含めて似ているな、と私は感じました。含みを持たせるような、内省的な終わり方もよく似ている。

良かったところは、インドの描写ですね。具体的なホテルやレストラン、病院などが書かれており、巻頭にリストがあって、旅行記のようにも思える。インドに行ってみたいと思うし、当然、インドに行ったことがある人はより楽しめるでしょうね。

全般として、私としては「ペレイラ」の方が面白かったと思うが、インドという未知の世界への足掛かりとしては良かったかな、という感じ。

ヘミングウェイ「日はまた昇る」

日はまた昇る (新潮文庫)

ご存じヘミングウェイの代表作。教養の一環として読んでおかねば、ぐらいの気持ちで手に取ったのだが、すごく面白く、特に2部以降は止まらなくなってしまい450ページを2日間で読了した。まだ余韻がある。

「日はまた昇る」というタイトルと聞くと、大河ドラマのようなスケールの物語を想像するが、簡単にいえば男女5人の旅行記のようなストーリーである。でもそこは総合小説というか、複雑な人間社会のある部分をすっと切り取ったような、物語の厚みがあって、サスペンスとは違う意味で、先の展開も読めない。

いくつか思った点として、第一次大戦前後の西欧はゆとりがあること。本作に限らず、ギャツビーしかり、経済的な余裕を感じる。最近読んだ「資本主義だけ残った」によると、世界の経済格差のピークは第一次大戦前後だそうだ。要するに植民地からの搾取があり、西欧に富が偏っていた時代ともいえる。この「日はまた昇る」の登場人物たちも、あくせく働いている様子が見えない。

また第3部が良かった。パンプローナの牛追い祭りが終わり、スペインを離れ、ジェイクがフランスに戻ってくる。ホテルにチェックインして、身の回りを整える。この付近の描写が、「祭りのあと」という感じがして、熱量のある第2部で作者も読者も疲れているので、走り切った後のクールダウンという感じ。終わり方も素晴らしかった。

素晴らしい小説だった。初版は1926年だそうなので、来年は100周年である。スペインのパンプローナとサンセバスチャンはいつか訪問することを心に決めた。

ミラノヴィッチ「資本主義だけ残った」

資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来

2021年に出版された本で、著者のブランコ・ミラノヴィッチは東欧系のアメリカ人だそうで、世界銀行等での勤務歴がある。これまで社会経済系の本で印象に残っているのは、フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」、それからサミュエル・ハンチントン「文明の衝突」だったのだが、本書はこれに次ぐインパクトがあって、すごく面白かった。

フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」は、これから民主主義で世界が統一されて、つまり社会主義というイデオロギーが無くなって、だから「歴史の終わり」になる、という内容だった。その後の史実からすれば、社会主義国は残っているので、この主張は間違っていた、ということになっている。けれども、本書を読んで、あながち間違いではなかったよね、と思った。

この本が言いたいことは、タイトルのとおり、世界の経済システムは「資本主義」しか残らない、ということ。けれど、この資本主義に流派があって、どの流派が残っていくかはわからない。という内容になっている。

アメリカやヨーロッパなど、民主主義をベースにした資本主義をリベラル資本主義として、中国やロシア、ベトナムなど一党独裁による権威的な政治体制の下にある資本主義を政治資本主義と定義している。

面白いのは、中国やロシア、ベトナムのようにかつては社会主義、共産主義と定義していた国も、いまや資本主義である、と言っていることで、これはその通りだなと。各国ともに社会主義や共産主義という言葉が国名から、すでに外れている。

また、社会主義や共産主義は、資本主義に至る過程として成立したもの、としている。経済発展がしていない新興国は、国営企業などを通じて、国家の介入した経済が発展に不可欠であるが、逆に経済発展してくると、資本主義以外の体制では経済成長を維持できない。この意味で資本主義は「歴史の終わり」である。

では、リベラル資本主義が最後に残るのか、と問えば、そうとも言い切れない、と言う。確かにトランプ政権下のアメリカはむしろ政治資本主義の要素が強まっている気がするし、シンガポールのように事実上の一党独裁の下に、高度な経済成長を続けており、かつ腐敗指数も低い国もある。ということで、まだわからないよね、ということだった。

パトリック・ホワイト「台風の目」

台風の目 (1974年)

パトリック・ホワイトというオーストラリア人の作家で、写真のオビにあるようにノーベル賞作家である。この作家の「台風の目」という小説を読んだ。

あまり日本で読まれていないのだろう、ほとんどの本が絶版。Amazonで古本屋から出品されているものを購入し、値段は340円。今年1月のシドニー旅行で、ここでシドニーとオーストラリアという国に深く感動した。帰ってきてなにか読みたいと思い、村上春樹「シドニー」を読んだ。村上春樹はエッセイを仕上げる過程でオーストラリア作家を作家を読んだということで、これがパトリック・ホワイトだった。

出来事が連なって世界が広がっていくところが読書の醍醐味だから、すごく理想的な形で出会い。加えて本作は無茶苦茶面白く、流石ノーベル賞作家だな。これは今年イチだなと思いつつ熱読した。

死の床にある裕福でかつては美しかった老婆をとりまく、弁護士、息子、娘、看護婦に家政婦たち、その1人1人が看病の合間に決して美しくはない過去を振り返っていく、という大人な筋書き。場面はほぼ病室。舞台劇のようだし、どこかカズオ・イシグロのような、不確かな記憶、のようなテーマも感じたりしつつ、イギリス文学っぽさがある。地味なテーマながら、圧倒的な文章力で、先が気になる。という具合に面白かったが、終わり方が唐突で、すこし違和感がありつつ読了。それでも、これは圧倒的名作だな、これはファンが多いはずだ、とウェブサーチしていたところ、以下リンク先のブログから衝撃の事実がわかった。

なんと、この邦訳版は10章のうち、3章しか掲載されていないのだという。カバーにも、あとがきにも注記すらない。たしかにタイトルの「台風の目」には「★」がついていて、不思議に思っていたが、このブログの推測によれば、上巻とか下巻とかそんな意味合いではないか、ということだった。

三笠書房から1974年の出版。三笠書房は二度と買わない、とまでは言わないけど、1970年代は許されたのかな、という気持ち。パトリック・ホワイトが素晴らしい小説家であることがわかっただけ、まあ良しとしようか。「ヴォス」という長編も書いており、名作に違いないので買ってみることにする。

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